甲賀のくすりコンソーシアム

甲賀のくすりの歴史

最古のくすり

滋賀県は温暖な地で、古来から薬草の採集が行われていました。蒲生野を舞台に大海人皇子と額田王の間で交わされた万葉集にも、ムラサキやアカネなどの薬草が歌い込まれています。また平安時代初期の延喜式という規則には、 近江から朝廷に納められたくすりが73種も記されており、その数は全国一でした。

あかねさす 紫野ゆき しめ野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる

滋賀県は、昔から様々な種類の薬草が豊富で、薬草栽培に適した風土、自然環境に恵まれていました。滋賀の最高峰の伊吹山は薬草の産地として有名です。織田信長公は植物の種類が豊富であった伊吹山に目をつけ、薬草園を開き、ポルトガルの宣教師に命じて薬草栽培を始めました。そして、ヨモギを使った滋賀県の特産品、伊吹モグサなど、様々な薬草の山として名声を高めていったのです。

ここ甲賀でも、昔から薬草が生えた草原が広がっていたと考えられます。 甲賀の山裾には、過去の長期間にわたって草原であったことを示す「黒ぼく土壌」 が見つかっており、古代より草地が人為的に管理され、野焼きが繰り返されていた可能性があります。 そうした地にさまざまな草地性の植物が生育していたと考えられ、薬草も生えていたのでしょう。また、丘陵地の斜面は粘土層におおわれて畑地に不向きで、人による過度な森林利用も重なって草地が増えました。 こうした環境は江戸時代の「江州甲賀郡絵図」にも表され、あちこちに草原が描かれています。

戦国時代の忍者とくすり

甲賀町田堵野大原家に伝わる忍術の伝書 「万川集海」 二十二巻には、忍薬として元気が出て腹持ちがよい飢渇丸や喉の渇きをいやす水渇丸のほか、敵をねむらせる薬、ねむ気をさます薬、敵の気を抜き阿保にする「アハウ(阿保)」薬、犬を倒す薬「馬銭子(マチンシ)」などが掲げられています。

甲賀忍者が火薬を得意としていたのもくすりと知識があったからでしょう。そして薬売りに変装すれば、たやすく諸国へ潜入もでき、情報収集が行えたにちがいありません。 

詳しくは「忍者とくすり」をご覧ください。

山伏と甲賀売薬

 富山売薬、大和売薬、近江の甲賀・日野売薬、それから九州では佐賀県の田代売薬。以上が四大売薬といわれていますが、同じ近江でも甲賀と日野とは成り立ちが違います。日野町の方は、近江商人(日野商人)が商う主力商品のひとつに万病感応丸という薬があり、製薬と売薬も行ったのが始まりです。

 甲賀の場合は、山岳修験道場であった飯道山の山伏が村に定着して、多賀大社の使僧としての役割を担います。お多賀さんのお札を配って各地に多賀信仰を広めていくと同時に、勧進を請け負い、そこで得たお金で多賀大社の造営や修理をしていました。そのお札配りの際に、土産として手渡したのがくすりだったのです。

また甲南町竜法師の甲賀流忍術屋敷で知られる望月本実家では、江戸時代から「人参活血勢龍湯」などのくすりを作る一方、伊勢朝熊岳にあった明王院に仕え、祈祷札とともに「朝熊の万金丹」を授けていました。

 それが、明治維新を契機に大きく様変わります。廃仏毀釈によって多賀大社にあったお寺も全部なくなってしまい、明治5年(1872)に「修験道禁止令」が出されて、甲賀の山伏も全員還俗させられ、お札配りで生計がたてられなくなりました。

 そこで今度は、お札を配っていた先に薬を売り歩くようになったのが、甲賀売薬の始まりだと考えられています。こうして信徒や檀家が売薬の得意先となり、山伏が薬屋に転業していったのです。

街道の発達と近江のくすり

滋賀県には東海道をはじめ中山道や北国街道など主要な街道が通り、交通の要衝でした。そうした街道を通る旅人を相手にくすりの商いが発展しました。

伊吹山の山麓、中山道の柏原宿では亀屋左京が伊吹もぐさを売り、彦根の鳥居本宿の有川家では、多賀大社の参詣の土産に「赤玉神教丸」を売り人気を博していました。東海道では徳川家康の腹痛を治したとされる大角家の「和中散」が知られ、日野には正野玄三が創成した「万病感応丸」が有名で、近江には数々の名薬が生まれました。そして街道を行き交う旅人によって全国に広められました。

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(事務局:甲賀市くすり学習館)